Essay
2022.09.17
さいはてのなにがし
石川県珠洲市での撮影最終日の朝。撮影中お世話になった「木ノ浦ビレッジ」で泊まった最後の朝でもある。目覚ましの設定より2時間早く目が覚めた。薄目で見渡すと、室内が不思議と澄んで見えた。このすっきりの目覚めをなかったことにしたくなくて、いつもなら三度寝するところをひょいっと起き上がることができた。窓の外を見ると、空気が気持ちよさそうな曇り空だったので外に出てみた。
絶え間なく波の音が聴こえる。海と空との境目もわからない。この「さいはて」では当たり前の音と景色なんだろう。海の見える場所で育った私には、この音が何よりの居心地の良さかもしれないと思うほど、いつまでも飽きることなく眺められた。
目の前の木に止まる鳥の鳴き声。風で揺れる葉っぱの音。飛んでいく鳥の群れ。船の進む音。朝から何か釣りに行くのかな。ここにはいろんな音があって、寝起きの冴えていない頭でも想像を広げてくれる。竹垣に並んだ雫。夜のうちに雨が降ったらしい。そういえば少し湿気がある。そんな初夏のさいはての朝。どんな光景も見逃すまいと目を凝らさなくても、自然と五感に寄り添ってくれる景色がここにはある。あ、どこからか飛んできたサンドイッチのゴミが竹垣の下に落ちている。唯一この風景に似合わないものだった。拾って捨てればいい。それでいい。
2日居たら「ずっと居たくなる症候群」になる不思議な場所。それが石川県奥能登にある珠洲市。「さいはて」の天気は変わりやすい。毎日どうなるかわからない面白さと同時に、天気というどうしようもなさに日々「潔く」なれそうな気もする。この景色と心の清々しさが私は大好きだ。お、少し太陽が出始めた。いろんな移り変わりを短時間でも体感できる。「何もないから些細なことも感じられる」とも言えるのかもしれない。
コンビニまでは車で25分くらい。普段からあまりコンビニに行かないけど、東京には道を挟んだ両側とか徒歩30秒以内に3店舗あったりする。この場所では夜にコンビニに入るとあまりの明るさに目が眩むことがある。普段どれだけの光を浴びているのかと思うほど、ここには「強い光」もない。
ここにいる人たちは「何もない魅力」を話してくれる。何もないけど美味しい魚がある、面白い人たちがいる、楽しい仕事がある、という私からすれば「あるものづくし」の魅力。実際、ここの夜は毎日がプラネタリウムのような星空があって、見上げなくても目の高さに絶景が広がっている。何があって、何をないとするかは人それぞれなのかもしれないとこの地で思う。「あるないの基準」は便利さが欲しいのか、味わいを求めるのか、その人がその時に必要としているものの違いなのかな。「こうでなきゃ」もここにはない気がする。開店閉店の決まった時間はあっても縛られる時間はない。なくていいものがここにはないのかもしれない。
強いて言うならスーパーや銭湯の閉まる時間が早いことくらい。でもその時間に合わせて行けばいいし、閉まってたら別の手段を考えればいい。ありすぎると「あって当たり前」になりがちだけど、なければないで代わりに「合間」がある。その合間が思考や時間を豊かにしてくれたりするから好き。
何を「無駄」と思うかも人それぞれなのかもしれない。今こうして丸太の上にパソコン置いて肩が凝りそうな姿勢で書いていることを「無駄」と思う人もいるだろう。でもその「無駄」がなければ、鳴き声も雫も雨にも気づかないまま、サンドイッチのゴミが海まで飛んでいたかもしれない。東京では過ごせないこんな朝の時間を
とまで書いて、突然の腹痛。うずくまった。女の子のあれだ。くぅぅぅ堪らないぜ。どんな場所でも体は正直ってことか。でも他に何にも代えられないのは、体に入ってくる空気が気持ちいいということ。お腹の痛みは変わらなくとも、東京での憂鬱さとは全く違う。だけど情けなくもあった。さっきまで意気揚々と目の前の景色に浸っていた私はどこへやら。
結局、この後は出発の準備や片付けをよんななのメンバーに任せて、私はお腹を抱えてベッドに横になることしかできなかった。薬が効いてきて、徐々に和らいでいく痛み。良かった。笑顔で挨拶できると安心しながら、チェックアウトをした。
この景色を独り占めできる木ノ浦ビレッジを運営しているのが、今回寄り添わせてもらった足袋抜豪さん。いつもにんまりした笑顔で迎えてくれて、帰る時は坂の上で見えなくなるまで手を振ってくれるから、毎回「また来ますねー!」と割と大きな声でお別れするため、見えなくなってからの私の口元に残った温もりで少し寂しくなる。「今度いつ来れるんだろう」ってすぐ考えてしまうほど、好きな場所と好きな人たちがここにいる。
豪さんと初めて会った日、初めてじゃないみたいな妙な信頼感が最初からあって、『よんなな』でこれからしようとしていることを優しい目でふわっと口角上げながら聞いてくれた。初めて同じ目線になってくれる人だと思ったのか、私も妙に心開いてしまい「明日生きられる、それだけでいい」なんて答えていた。それが『よんなな』を始めたきっかけだった。ドキュメンタリーを見ていてそう感じたから、自分もそんなものを作れたらと思ったのだ。豪さんはなにかと真髄みたいなところを、子供がたまに核心つくくらいの軽やかなテンションでヒュワッと聞いてくれる。「やっぱりプレイヤーの方がいい?」と不意打ち突かれて、「んー・・・プレイヤーなんだなって、よんななを通してより実感しました」と答えていた。人に聞かれないことを聞いてくれるのが豪さんで毎回ちょっとだけ、ドキッとした。
映像を見てもらった人はわかるかもしれないけど、豪さんは自分よりも周りが、特に女性が活躍する場を作りたい、そんな人材に出会いたいという想いが強い人だ。
「人を育てるっていうのは社会を変えることに繋がると思ってて、どんな社会にしたいのかは置いといて、自分の感覚で変えた方がいいのかなってのがある。人を育てることで少しでも(社会が)変わるかなと」
子供の時から伝統的な「お祭り」に違和感を感じていたらしい。
「『なんでお母さんそんなに働いてるんだろ』って思ってた」
「その時からそっち側が目に入ってたんですね」
私が「女」だから子供の時にそんな疑問を持たなかったのか、親が共働きだったからかはわからない。だけどみんなが楽しんでいるはずの年に一度のイベントに対して、楽しむ気持ちも理解しながら違和感を感じられることが、すでに見渡せてる豪さんだったんだと感じた。
「ワクワクするのもわかるけど、男性が騒ぐ裏で女性たちはお家で一番動いている。それってほんとに必要なのかなって。1年ごとに男女入れ替わってもいいんじゃないかと。好きじゃなくても伝統だからやるって人もいると思うし」
女性が一歩後ろにいる存在っていう土地だからこそ、女性が活躍できる場ができたらそれも変わるんじゃないかと思い始めたと言う。ここまで来ると気になる。
「豪さんのほんっっとにやりたいことってなんですか?」
「それよく聞かれるようになって、一番やりたいのは多分、教育なんですよ。簡単な言葉で言うと。子供に限らず高齢者まで。理解を得るためのものじゃなくて、何かを学ぶためのものだから、その根っこの部分、テーマみたいなのがまとまった教育。子供から大人まで地域に合った理念みたいなのがある気がしてて、それを作るのは怖いことだけど、柔軟性を持たせるようにしたいと。選択できる決断できる力を持たせたい。僕がやってることがおかしいと思ったら僕じゃないって選択をできるようになればいいし、一つの選択としての足袋抜豪の考え方でいい。それでいいし、大事なのは自分の判断でそこを選べるってことができたらいいのかなって」
「じゃあ、はい(生徒のように手をあげる長内)」
「はいどうぞ、長内さん」
「んふふ。『それでいい』と『それがいい』って違うと思うんですけど」
「なるほどほほほ(笑)」
「それは豪さんにとっての『それがいい』のやりたいことなんですか?『そんな自分でいい』じゃなくて『こんな自分が・・・」
「今までは『それでいい』だったと思う。ここ10年くらいは」
「あ!(珠洲市に)戻ってきてからってことですか?」
豪さんは珠洲市出身だけど、一度金沢に出て、10年前に珠洲市で農業を始めた。
「状況は変わるし、人の感性も考え方も違うから、人に対してだったら『それでいいよね』って考え方をしてた。だけど自分に対して本来の『それがいい』を考えたら何かってなると、自分が良い悪いじゃなくて、やっぱり『それがいい』って言う人を作りたいんだと思う。自分と関わった人が自分のことを『それがいい』って言ってくれたらハッピーじゃん。その人が『それがいい』って選べるっていう決断を僕は見たいし、自分の考え方と違ってたとしてもその選択をできるのはすごく良いことだなって」
「・・・わぁすごい、涙出てきた」
長内、隠しきれない謎の涙を流していた。「『それがいい』って言う人を作りたい」ってのを聞いた時に、「ふぉ〜!」とか言って涙腺がゆるゆるになり始めているのをごまかしてたけど、我慢できず溢れてしまった。この人はやっぱり「自分」よりも「人」なんだ。どれだけ掘り下げようとしても、豪さんの中に張り巡らされた根っこにあるのは、大きくて堂々とした「人」だった。それを話してくれたことにも私は感動したんだと思う。
「できるかできないかはわからないよ。教育やりたいですって今は言ってるけど、気持ちは変わるし、『それがいい』って思うことも変わってくだろうし、それって時代の変化と合わさってくこともあるし、それはそれでいいと思ってる。変化があってそれに順応しないと苦しくなっちゃうから、多分順応した方が生きやすくはなると思うけど、遠い先がなかなか見えないって社会になってきてるから、そう考えるとその時々の選択や決断は必要で、僕だけじゃなくてみんなが毎日してると思うから、その中で自分が納得できる選択ができればやりたいことがだんだん見えてくるんじゃないかなって。それがもっと具体的になって、周りの人たちも動いてくれるような現実が来るんじゃないかな」
人生のかっこいい先輩だ。私のことを理解してくれて、この言葉たちを選んでくれてるのかなと勝手に思い始めて、やっと落ち着いた涙腺がゆるゆるになりそうだったので、そうなる前に聞いてみた。
「そうなると、豪さんにとって珠洲市ってどういう位置付けになりますか?今どう思ってるのかなって。改めて・・・好きですか?」
「好きか嫌いかで言うと、嫌いだった。今は好きになりかけてるけど、今の質問で言うと、なんかすごく(珠洲市が)自分自身に似てるんだと思う」
予想外の返答に少し戸惑った。「というと??」
「というと、やっぱりもがいてるんですよ。小さい頃はそこまで苦労してない時代背景で物もサービスも娯楽もあって、何不自由ない環境で育ってきた。珠洲市も元気で活発だった。でも大人になって社会が疲弊してくと地域も人も疲弊して、そういう出来事が自分の生きてきた中での感覚と珠洲市が似てる気がする。土地と自分を知ったときに似てるんじゃないかなと。ここ(珠洲)が良くなれば自分も良くなるんじゃないかと思ってるのかもしれない。幻想かもしれないけどね。その土地がハッピーだったら多分自分もハッピーになれるからから、それでいいんだと思う。生まれた土地だし共感できるというか、その状況をやきもきしたり何やってんだって思うこともあるし、それが自分に返ってきた時に自分もそうだよねって重なるところがすごくある」
私も地元を離れてなかったら、そんな風に感じてたんだろうか。生まれ育った街と自分を比べたこともなかったし、どこかでかなり客観的に見て「その場所に居た自分」くらいにしか考えたことがなかった。豪さんの客観視はやはり広く広く見渡せている。子供の時のそれより、もっと大きくたくさんの人と物と場所を見渡せている。地元が元気になればそりゃハッピーにはなるけど、自分自身と重ねたことはないから豪さんの珠洲市を「好きになりかけている」っていう返答は、表面的な「好き」じゃなくて、自分自身のことを好きになろうとしている「今」を聞けた気がして、危ないまた泣きそうになる自分がいた。
「街を自分が元気にしてるってつもりはないし、みんなが頑張ってるから元気になってるのは事実だから、一つになれたらいいよねっていうのは思う。それは恩返しってのもあるし、自分の生まれた土地が元気になって、有名になるかはどうでもよくて、ここに住んでる人たちが元気で楽しく過ごせて、ここに住んでたいとかここで仕事したいとか起業したいとかいう風になってきたらすごく面白いよね。そうなればいいなって思う」
「今、この話を聞いて、私が元気になりました」
「ありがとう(笑)」
「やっぱり人。対象がずっと人の話をしてくださるんで」
「多分助けられてたんだと思う。小さな頃から自分の家族以外の人たちが面倒見てくれて多分染み付いてたんだろうね。それがもしかしたら教育の一つだったのかもしれない」
そう話す豪さんはずっと楽しそうで、このバイタリティーはどこにあるんだろうと思った。当たり前だけど笑わない時もあるし、凹む時もちゃんとあるらしい。だけど、人には見せない、人にはやっぱり見せられないと。
「そこはここ(珠洲)の人なんだろうなって思う。ここの人たちもそうだと思う。苦しくても苦しいを見せない。だから見栄っ張りといえば見栄っ張りなんだけど、そういうのを人に見せて不快にさせたくないと思ってる人たちが結構いると思う」
「もしかしたらここに来る人ってそういうところに魅力を感じて来る人もいらっしゃるかもしれませんね」
「そうかもしれないね。そういうのをなんとなく感じる人たちが集まってるのかもしれない」
「珠洲市、好きになりました」
「ありがとうございますあははは」
木ノ浦ビレッジのそれぞれのコテージの名前は、自然にちなんだかわいいロゴになっている。珠洲市にはこれらすべて揃っていて、ここに「人」も勝手に追加している私。珠洲市に深刻な人口減少の問題があるのは現実で、なくなる景色もあるかもしれない。それでも「今」の珠洲市に住む人を通じて知れたことは、私の中に色濃く刻まれていて、ここを訪れるたびに元気をもらっているのも事実。もし何かあってこのビレッジに駆け込んだら、豪さんは理由も聞かずに受け入れてくれそうな気がする。そんな優しい懐を持ちながら、やりたいことと気持ちがしっかりある豪さんと出会って、私も人に救われた経験があるから今猛烈に人が好きなのかもしれないと考えさせられたし、それでいいんだとも思えた。あ、「それでいい」って自分を許せる言葉になるね。そうか、豪さんに会うと「これでいいんだ」って思わされるんだ。そうやって優しい勇気ももらって、ハッピーになっているのかもしれない。