Essay
2022.03.27
繋ぎ守られる火はきっと今も
よんななで初めて密着させていただいたのは、石川県珠洲(すず)市で炭やき職人をしている大野長一郎さん。正直、炭って身近ではないし、バーベキューや焼き鳥屋さんとかのイメージくらいで、炭の作り方なんてもっとわからなかった。しかも大野さんは茶道で使うお茶炭をメインにしている。私は中学時代、茶道をしていたけど道具と作法に夢中で、炭に注目したことなんて一度もなかった。お会いする前に見つけた大野さんの「(自分が茶道用木炭を作ることで茶道という)一つの日本文化を守ることにも貢献できる」という言葉に、今まで行き着かなかった循環の魅力にグッときた。自分のやっていることを守るんじゃなく、やり続けることで他を守ることができるという想いは、大野さんに実際お会いしたらより鮮明に伝わることになる。
初めてお会いしたのは2年前の冬。どこの誰かもわからぬ私たちとお話してくれる時間を作ってくださった。このニュアンスから察する人もいるかもしれないけど、私はまあしっかり緊張していた。何から話そう、私がやろうとしてること伝えられるかな、聞きたいこと聞けるかな、この通りガチガチだった。というのも、ネットなどで出てる大野さんや紹介してくれた方の印象が「気難しく堅い感じ」だった。でも会ってみたら、全然違う。私の緊張を察してくれたかのように、頭をほぐされてしまった。きっと失礼な質問もしたと思う。それくらい自由に聞きたいことを話せる空気を作ってくれた気がする。ふと「今」について聞いた時に「とても大事なものが失われそうなのは事実」と言われて、なんとなくの自分の身の回りの話だけど「わからなくもない」というのがその時の正直な反応だった。15年以上たくさんの人の手を借りながらもゼロから始めた大野さんの実感による蓄積は、「覚悟」という言葉を使わずともバシバシ全身に浴びせられた。
気づいたら私は泣いていた。「よんなな」というチームを作って、やっと2ヶ月経ったくらいの私はただ浴びることしかできず、最終的に出てきたのは涙だけだった。機材も何も揃っていないのに「大野さんを撮って残したい」と駆られる気持ちから、何者でもなさすぎる自分の手にうまくバトンが渡らなかったんだと思う。頭と心が繋がらなかった。そしたら大野さんはそれすらも察したのかな。最後に「病んじゃわないように、自分の心は保ってね」と言ってくれた。大野さんからのやさしさのそのバトンはしっかり掴みたかった。その結果、ただでさえボロボロになっていた緊張の綱が切れて、初対面とは思えない涙声でお礼を言っていた。これが大野さんとの出会いだった。
大野さんの炭を使ってみたいと思ったけど、IHの一人暮らしの家にはお香くらいしか火を使う術がなかった。そうだ、実家は庭でバーベキューをよくしてるし、火を焚いて暖を取ったりするから、実家に送ろう。母の日に母がずっと欲しがっていたさんまをそのまま焼ける七輪と一緒に。その七輪は珠洲市特産の珪藻土のもの。大野さんにおすすめを聞き出し、それと共に大野さんの炭を送った。それからなんやかんやと「使うのがもったいない」とか言って、月日が流れて母の誕生日に父とバーベキューをしたらしい。その写真が送られてきた。
母曰く「味が全然違う!美味しい!」と。炭が変わると、いつもの食材の味まで変わるらしい。感受性豊かな母がいつにも増して感激していた。やっぱり使ってみたいという話になり、よんななでバーベキューをすることにした。子供の時からキャンプによく行ったり、アウトドアが好きだけど、自分で炭に火をつけたことがないことが判明した。全く火がつかない。恥ずかしい。一緒に行った木村文乃氏が予想外に詳しくて笑ったけど、しっかり甘えて任せることにして私は炭を凝視していた。そして炭がかすかに赤くなった瞬間、初めて火を見た人かのように感動してしまった。そこから仰いで徐々に他の炭も赤くさせていく。いや、文乃氏が赤くしてくれた。このままずっと見ていられると思った。仰ぎながらも、赤みが充満してきてからも、ぼふぁーっと燃えてる時も、ずっと見ていられる。お肉を焼くのも忘れそうになるくらい見ていた。結局焼き始めたら食べるのに夢中になったけど、お腹が満足したらまたみんなでずっと火を見ていた。その火を囲んでギターに合わせて歌ったりなんかして。大野さんの炭のおかげで楽しい非日常時間を過ごせた。
大野さんの炭は他の炭とどう違うのかご本人に聞いてみた。火付け・火力・燃焼時間が茶道で使いやすい焼き上がりになるらしい。そして燃焼によって出てくる「かほり」は趣きに変わると言う。匂いがしないと火付けが悪いとか火力が少ないってことになるそうだ。手元に炭が届くまでどれだけの時間がかかるんだろう。
窯に伐採した木を詰めて、「火様(ひさま)」を入れて5日間くらいかけてゆっくり温める。この時、よく見かける備長炭などの白炭よりお茶炭の黒炭は温度がかなり低いらしい。煙突から出てくる煙の温度で状態がわかるらしく、ある温度になったら次の工程「本焚き」に入る。これまでは蒸されてるだけの状態だったのを薪の量も増やして温度を上げると、木が熱分解を始める。そこから炭化が始まり、大体5、6日かけて窯の中で自然と斜め上から奥に向かって炭になっていく。中にある木をちょっとずつ燃やしながらその熱を確保しつつ、炭にしていくってことをやったのが「炭やき」と言うらしい。炭化していく間に真っ黒になって、最後は窯の中で真っ赤になるんだって。この後1週間かけて冷やすらしい。なので、木を切り出してきて、窯に詰めて、焼いて、取り出して製品になるまでは1窯あたり約1ヶ月くらいかかることになる。こんな風に目の前にある商品の全貌と時間を知れて、より大切にしたいなと思った。
大野さんのお母さん、春子さんが私たち3人にくれた菊炭。私たちは飛び上がって喜び、今でも各々インテリアとして大野さんの炭を家に飾っている。
いろいろ気になりがちな私はここまででさらっと流せない言葉がある。「火様」とはなんぞやと。撮影中も大野さんは「火様火様」とよく言っていた。二度目に大野さんとお会いした際にやっと真相がわかった。
工場内の神棚のすぐ下にある火鉢を案内してくださって、
「ここにずっと繋いでる『火様』がいるわけよ」
と言って灰をかき分けると、中に優しい赤色の火が灯っていた。こんな白い灰の中にまさか燃えている火が見れるなんて思いもせず、突然の予想外なことに「へぇ〜」というありきたりな感嘆の声しか出なかった。
「毎日朝夕やってる儀式がこれで。儀式ってほどでもないけど火種がちゃんとあるのを確認して自分が焼いた炭を火鉢に足して、こう灰をかけとく。火種の量と足した炭の量を間違えると消えちゃうんだけど、十分に火種がある場合は大きな炭を入れても大丈夫。今入れたから、これでもう明日の朝まで炭を足さなくても火様はずっとカルシファーみたいにゆっくり炭を食べるみたいな。あはは。」
「わかりやすい・・・」
「窯に木をつめて焼き出すときは、ここから火をもらってそれで窯に火入れをしてる。(火のついた状態が)370日以上は経ってるかな」
「今ですか?」
「うん。去年6月に649日目に消しちゃって」
「えーーっと、わざとですか?あえて?」
「んんんんん。ミスだよミス(笑)消えちゃった。でもだんだん最高記録を更新してってる。最初は一週間だったね。神事をして祝詞あげてもらってたくさんの人に見守られながら、さあこれから頑張りますって言ったら一週間で消えた(笑)次は55日くらいで、その次が155日。その次が649日だったかな。最初は1年に何回か消してたのが、1年続いて、2年続くかなってとこで消えてしまった。どういう状況だと消えてしまうのか、火鉢だけじゃなく、自分のメンタリティーというか、あ、こういうとき俺忘れるんだとか、色々今ちょっと経験をね、あはは。このままだとずっと長期旅行に行けないんだよね。ほんとは今いる人たちにやってもらえたらいいけど、それだけ『これだけの炭でお願いします』っていう炭がまだないので。自分が焼く人にならなあかん。そしたら炭を分け与えられるんだけど。商品にならない生焼けみたいなところをああやって取っておいて」
「あ、あれを使うんですね。一日一回忘れたら消えますか?」
「んーうん。丸一日放っとくとやばい時はある」
「これはちなみに名前あるんですか?この儀式に」
「一年に一回のは火起こし神事。毎日のには名前ないね。つけてくれてもいいよ」
「これは大野製炭工場ならではのことですか?え、むしろ名前つけていいんですか?」
「つけようと思ってなかったからどうぞ(笑)」
「いえ、つけません(笑)」
「そうね、うちならではのことかもしれないね」
「なんでやろうと思ったんですか?」
「自分で植えて育ててすげぇ苦労したやつ、さあ焼けるぞってなったわけよ。2004年に木植えて育って2012年の冬にやっと切って、2013年の1月くらいにさあ焼こうかなと思った時に、いつも通りライターで火をつけようと思ったら、ライターの火で焼きたくはないってなんとなく思って、それで火を調べ始めた。『火は古ければ古いほど新たかである』っていう文献の一文を見つけた。矛盾してる気がするし、記憶違いかもしれないけど、とにかくなんか古いとすごく崇高であると。そしたら比叡山延暦寺は1300年続いてますと。そこに行って火をくださいと言うわけにも、どうやって運ぶんだよって感じだし、どうしようかなと思ってたら、県内で300年火を守ってる老夫婦がいると新聞とかニュースで知れた。どうにかその「古い火」をもらえないかと紆余曲折してたらある人が『古い火もいいけど、清い火ってのもいいんじゃないの』と言ってくれて、『人が繋いでる火をもらうのもいいけど、自分で(火を)起こせよ』と。そう言ってくれた時に自分でやってりゃさすがに(年月を)ごまかせないじゃないか、ごまかしたってわかるじゃないかと。それで自分で起こして繋げることをやってみようって始めた。
キリコ(祭り)がなくなった今、祭りってどれだけその地域のコミュニティーを支えてきたものかってのがわかった。昔の人がそうしてきたから、自分が祭りを作ってもいいじゃないかと。続けていく、回数を重ねてくってことで伝統とか文化とかになっていく。一回二回のイベントでああだこうだ言わず。いずれは祭事として成立させたい。確実に火様を消さないようにして、あと2年で1000日目とかになるし。そういうのができたらいいな。今はキリコ燈籠も暗くなったらLEDが点いて安全でいいんだけど、守ってる人全員の火を和ろうそくに灯して、そのろうそくでキリコ燈籠に灯し、神輿の足元照らしながら先導するってのをやりたい。担ぐ時も全然想いが違うと思う。自分たちで守ってきた火。火を電気に変えるイノベーションじゃなく、燃えない紙や和紙をイノベして、火だけどちゃんと安全ですみたいなのがいいな。そんなことができたらいいなっていう俺の自己満足の話でした。あはは」
20分くらいだったけど、贅沢にも目の前で生のドキュメンタリーを体感してるかのようで興奮した鳥肌がずっと立っていた。一日一回決まった時間に薬を飲むことすらできない私だったらすぐにカルシファーを消してしまうだろう。まさか「火様」の話からこんな未来の話に繋がると思ってもみなかった。大野さんはただ「火様」を守り続けるだけじゃなく、その先にある考えた希望もしっかり持ちながら奥能登で生きている。いつか大野さんが作り上げるお祭りに行ってみたい。大野さんは自己満足って言うけど、自分が満足できることは他の誰かも満足できることなのかもしれない。少なくともこの話を聞いた私は勝手にバトンを受けた気になって、本編映像に載せられなくてもここに書き記したいと駆り立てられたほど心が満ちたから。私の方こそここに書くことで自己満足になっている。そんな一人運動会でもいいから、走り続けたいと思わされる出会いが大野さんだったのかもしれない。